今は「ライフワーク」と自信を持って言えます


私が高校生のころは、1981年の国際障害者年のテーマ「完全参加と平等」に向けて、視覚障害者の世界でも新職業開拓が叫ばれていました。

私は6才からエレクトーンを習っていたので、音楽の道に進むか、点字が大好きだったので点字の本を所蔵する公共図書館で働きたいと思っていました。しかし、音大受験にはクラシックピアノが必須ですし、福祉系の大学に進学するにも社会科は苦手だったし、けっきょく間に合いませんでした。そして、取りあえず盲学校の鍼灸マッサージの専攻科に進み、受験勉強もしようと考えました。

ところが、鍼灸マッサージの勉強を始めてみると「何て奥が深いんだろう!」と感激してしまいました。

凝りや痛みがある患部を触診して治療する方法や、整形外科や接骨院で吸盤のようなものを当てて電気を流すのと同じように、鍼を刺して電気を流すパルス鍼療法もあります。また、微弱な電気を流して電気抵抗が減弱している所が経穴(ツボ)と一致する所が多いので、テスターで自律神経の変動やバランスを間接的にとらえて治療する方法もあります。

盲学校では国家試験に合格できる程度のことを教育するので精いっぱいなのかもしれませんし、先生方がきちんと臨床ができるかというと???と思うこともありました。そのため「他にすることがないから按摩でもするか」という学生もいて当然だと思います。私も正直、そう思って進学しました。

経絡治療との出会い

先輩たちから勉強会に勧誘された中で私がのめり込んだのは、経絡治療でした。経絡治療は、患部だけを直接治療するのではなく、左右の人差指から薬指までの六本の指を両手首の脈が触れる所に当て、五臓六腑のバランスを確認して、肘・膝から先の経穴(ツボ)に治療し、バランスを整えることを主とする治療法です。経絡治療を勉強するうち、経穴は生きて働いていることが判るようになり、グッと押さなくても、軽く撫でるだけで経穴を見つけられるようになりました。夏休みと冬休みはほぼ毎日、平日も下校時に先輩の鍼灸院で勉強させていただきました。

昭和59年のクリスマスイヴ、名古屋は大雪でした。しかし、複数の恩師から「平瀬君が経絡治療に陶酔してるのはわかってるけど、一度松尾君のところに面接に行ってくれないか」と言われてしまいました。私は他の流派の治療については全く興味はありませんでしたし、職安からの求人でも「弱視であること」が雇用条件だったので、恩師の顔を立てるだけのつもりでついて行きました。そして、経絡治療以外には興味がないことも断言して帰ってきました。私が惹かれたのは、パソコンの勉強ができそうだということと、月給制で、ボーナスも出るということくらいでした。

ところがその日の夜、松尾先生から「悪いけど平瀬君のこと、いろいろ調べさせていただきました。こちらとしては全く依存はないので、就業規則を送ります。よく読んで、来てくれるかどうか判断して下さい」という電話がかかってきました。松尾先生の同級生の経絡治療の先生にも教えていただいていましたので、私のことはすぐ調べがついたのでしょう。

優柔不断な私は「サラリーマンみたいに月給制だしボーナスも出る。違う流派の勉強をしてみるのもいいか」という気になってしまいました。

松尾先生は整形外科にお勤めだったこともあり、西洋医学に基づいて、筋や神経を刺激して血行をよくしたり、痛みを緩和する治療をしておられました。東京や京都の勉強会に参加するときも、受講料や交通費の半額を出していただきました。よく勉強される先生なので、ついて行くには大変でしたが、二年間で充分すぎることを学ばせていただきました。がんの患者さんも診せていただきました。

5年くらい勉強させていただいてから開業しようと思っていましたが、松尾先生から「今開業しないと、平瀬君の自宅近くで先に開業する人が出てくると思う。もうその腕なら大丈夫」と太鼓判を押していただき、昭和62年4月、ひらせ鍼灸院を開業しました。

後から医療機器業者から聞いた話では、私が開業したときのちらしを、松尾先生は治療院の玄関に拡大コピーして掲示して下さっていたそうです。そのおかげか、私を追いかけて遠路治療に来て下さった患者さんもいらっしゃいます。「あの先生、腕はいいけど、無口だから兄ちゃんに話聞いてもらいたいから」と。

そういえば、退職直前「平瀬君、ぼく○○さん苦手だから任せる」って言われたこともありました。

今の私は

松尾敏彦先生は、平成21年8月、54才という若さで永眠されました。

松尾先生のコピーにはなれませんが、先生から教えていただいた「傍神経刺」という治療法を軸に、その後私なりに研究した治療法を採り入れ、日々施術させていただいています。また、経絡治療で培った「圧迫しない触診」は、患者さんの皮膚や筋肉の状態を変えないで患部の状態を知るために、今も重視しています。

鍼灸マッサージは、気を調整すると言われています。気は元気、空気のように目には見えないものです。強揉みの患者さんの治療させていただいた後、何となく疲労を心地よく感じることがあります。また、鍼をしていて患者さんが眠いとおっしゃったとき、私も眠くなることがあります。そんなとき「ああ、気が通じ合ったんだな」と思います。

患者さんに「楽になりました。また来ますね」とおっしゃっていただいたとき、私は

最高に幸せです。鍼灸マッサージを仕事にしてよかったと思います。

音楽は・・・・・趣味として今も楽しんでいます。ジャズピアノを勉強しています。日本の曲なんかも、ジャズにアレンジし余興で演奏させていただいたり、ジャズがお好きな患者さんとライヴハウスに行くのが最高のストレス解消や原動力になっています。

追記(平成31年4月25日)

昨日(4月24日)、学生時代のノートを整理していたら、松尾先生から頂いたお便りが出てきました。平成が終わろうとしているこの時期に、「もう一度気を引き締めなさい」ということなのかもしれません。ここに、自身への戒めをもこめて、松尾先生からのお便りを書き写しておきたいと思います。改めて、この師匠についてよかったと感謝しています。

昭和60年1月初旬に頂いたお便り

寒さ厳しき折、試験勉強も大詰めを迎え、お忙しいことと思いますが、健康にご注意ください。

この度、当院の求人に対し、昨年末遠いところをお出でいただき、まことにありがとうございました。

実のある話をお聞かせできなかったことを深く反省しておりますが、とてもよい人材と喜んでおります。

つきましては、お約束よりやや遅れましたが、雇用契約書と就業規則を点字に直したものをお送りいたしますので、一項目ずつよくお確かめください。

なお、先日もお話いたしました通り、脈診の道とはまったく違う、現代医学を少しでも取り入れようとし、なおかつ患者との信頼関係を築きながらより多くの人に鍼治療を経験させ、その効果を広めたいとすることが私の主眼ですので、よくお考えください。

30才になる前に道を変えることは簡単ですが、視力障害者の場合、より早く技術を身につけ、根を築くことが重要ではないかと思います。

いろいろな診察法・治療法がありますが、どれを選び、学び窮めるかはあくまでも自己満足の領域を抜け出せないものだと思うのです。 患者はどんな方法でもいいから、より早く、より楽になりたいのですから、私たち治療家は鍼灸にとらわれず、注射がよいと思えばそれを躊躇なくすすめられる治療技術を持たなければならないと信じております。

人は人によって研かれ、技術は患者によって研かれるものと考えます。

当院の求人に納得がいきましたら、電話でけっこうですのでご連絡ください。こちらより学校へ連絡し、ただちに印刷物をお宅のほうへ送らせていただきます。

長くなりましたが、免許試験に全力を尽くしてください。吉報をお待ちします。

昭和61年12月22日、 自立開業提案のお便りの一部

調査の結果、62、63年には開業地周辺の人口増加と移動の山がくるため、それよりも早く地元に根づき、治療院としての印象づけを行うには、毎日のしかも長時間営業でなければ難しい。

人口増加は直接鍼灸人口とは結びつかないため、89年後半から順調に増えつつある商業人口から患者の流れを作るためにも、地元での社会参加は早いほうがよい。

鍼灸治療の評価が非常に低い地域のため、そのレベルを上げる意味での役割を果たす役目を誰かが果たさなければならない。

競争力がある開業鍼灸師が周辺(半径3km)に見当たらない。

昭和62年夏に頂いたお便り

連日の猛暑に風鈴の音も暑苦しく聞こえ、何に涼を求めればよいか、それを考えることさえだれてしまう夏日ですが、いかがお過ごしですか。

先日はけっこうな品を頂き、大変喜んでおりますが、既にあなたは自身は社会の中で一本の柱として独立したのですから、今後お気遣いのないようにご両親にもお伝えください。

開業してまもなく四カ月になりますが、この夏から秋の新患が今後大切な患者層を形成していく筈なので、気を引き締めて診療に当たらなければ、患者の流れが変わったり、つかめなくなったりすることが生じてきますよ。  そんな心配はないのかもしれませんが、人はときとしてふと今の自分に満足し、成長を怠ることがしばしばありがちなので、我が身も照らし合わせて一言述べておこうと思いました。

また飲みに行くときは誘いますから、トラック一杯分のお札を用意しておいてください。


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